かっぽれの詳しい歴史

住吉踊りがかっぽれのルーツ

浅草神社(三社様)のかっぽれ奉納にて、櫻川ぴん助による口上です。
かっぽれの歴史を話しています。(平成25年5月5日撮影)

かっぽれの詳しい歴史

文化・文政年間(1804~1830)

無形文化財の住吉踊りがかっぽれのルーツといわれています。住吉大社では毎年6月14日「住吉の御田」として知られる御田植祭りがあり、無形文化財の「住吉踊り」が奉納されます。江戸の願人坊主(がんにんぼうず)たちがこの踊りのバリエーションを始めたといわれます。住吉踊りには「御連中」という一座があり、それは広重の浮世絵江戸百景の中にも描かれています。

大道芸 願人坊主
「かっぽれ」は願人坊主が始めた踊りの一種で、歌舞伎舞踊の中に残っています。原曲は常磐津(ときわづ)の「願人坊主」で、文化8年(1811年)3月、江戸市村座で上演された七変化舞踊「七枚続花の姿絵」の中の一つです。
これを六代目尾上菊五郎が清元に直し、「浮かれ坊主」と題して、昭和4年6月に東京歌舞伎座で踊りました。この舞踊曲の中に願人坊主の生態が描かれています。この願人坊主の本業は、頼んだ者に代わって神仏への代参をしたり、代垢離(だいごり)をとったり、また守礼、神礼を頒布することでした。地方の事情にも詳しくいわば現代のニュースキャスターのような役目もしていました。

歌舞伎舞踊
「栄華(えいが)の夢全盛遊(ぜんせいあそび)」

明治・大正(1868~1925)

初代豊年斎梅坊主
初代豊年斎梅坊主は信州松本在の代々名主を勤めた家柄で祖父の名は松本幸四郎。その子息に二人の兄弟があり、兄は佐吉、弟は亀吉。この佐吉が初代豊年斎梅坊主の父にあたります。佐吉は江戸に出て、町内廻りの髪結になり、つたという女性と結婚しました。安政元年(1854年)1月元日に梅吉が生まれました。梅吉が二歳の時、安政の大地震があり、その翌年は水害で家を流され無一物になってしまいます。母のつたは病死し、七歳の時には父は火事のために失明してしまいます。
梅吉は当時流行っていた阿呆蛇羅経(あほだらきょう)を覚えて、門付けをして生活を支えていました。江戸が明治に変わる頃は大道芸が盛んで、講釈師や茶番などの芸人が下谷や神田、芝などの空き地でパフォーマンスをするようになりました。なかでも梅坊主一座の「かっぽれ」は人気がありました。梅坊主という名は、名前が梅吉で頭が丸坊主でしたので付けられたのです。梅坊主が座頭になって活躍した頃は先輩に初坊主、猫豊、ハッカケ重、クシ面辰、宇の丸などの親方がいましたが、次第に権利を梅坊主に譲るようになりました。
豊年斎梅坊主は「かっぽれ」の名人といわれ、当時の政治家黒田清隆や西園寺公望は屋敷に呼んで贔屓にしていました。彼らがパトロンとなって、初代豊年斎梅坊主はアメリカで公演もしています。昭和2年2月14日、バレンタインの日に74歳で亡くなりました。松本家の墓は谷中の長運寺にあります。

歌舞伎舞踊
「初霞空住吉」(はつがすみそらもすみよし)
九代目団十郎・初代市川左団次

「初霞空住吉」は明治19年(1886年)1月の新富座で初演されたものですが、それまでに文政10年(1827年)の「栄華の夢全盛遊」や明治8年(1875年)の「娯浮世機関」などがあります。しかし、現在舞台で上演される「かっぽれ」というと、もっぱらこの「初霞空住吉」となっています。当時九代目団十郎は歌舞伎の革新に熱中していて、活歴と呼ばれた高尚な歴史劇ばかり上演していましたが、これに不満の客席から、「かっぽれでも踊れ」といったヤジが飛んだそうです。(東京絵入新聞に投書が出た、という説もあります)。これを聞いた団十郎が「そりゃおもしろい」とさっそく取り上げたというエピソードがあります。団十郎はかっぽれを歌舞伎舞踊化するために、その踊りを初坊主と梅坊主に習ったといわれています。浅草の浅草寺を舞台に、かっぽれ升坊主の団十郎とかっぽれ島蔵の左団次の軽妙なやりとりが見物人を笑わせました。そのほか、かっぽれ海老八に八代目市川海老蔵、かっぽれ鶴松に市川鶴蔵、かっぽれ高吉に市川小団次、官員に市川団右衛門、芸者小むらに沢村源之助、舟宿の女房お調に坂東秀調、かっぽれの女房おれんに市川喜知六、かっぽれ鈴八に市川升蔵、かっぽれの女房おきつに市村橘次などが出演しています。作詞は河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)で作曲は五世岸澤式佐(きしざわしきさ)です。天下の名優団十郎以下全員が素顔に浴衣がけスタイルで、ぐっとくだけた踊りを披露しましたから、観客はびっくりしたり喜んだりで大変だったといいます。一種の観客サービスだったともいえますが、かっぽれそのものが歌舞伎の檜舞台に初めて上がったのです。

昭和(1925~1988)

大芸道
豊年斎一輪こと豊年斎二代目梅坊主
豊年斎梅太郎こと豊年斎三代目梅坊主(二代目実子)

二代目を継いだのは初代の次男の豊年斎一輪でした。一輪は浅草十二階の演芸場で初舞台を踏み、初代と一緒に仕事をしていました。初代は亡くなる前に「時代が変わったから、芸人の道はあきらめて、堅気の道に進め」と一輪に遺言したそうですが、石谷勝や久保田万太郎は、「どうしても二代目を継げ」と膝詰め談判をしました。こうして一輪は二代目を継ぎましたが、昭和の時代には「かっぽれ」の芸だけでは観客を集めることはできませんでした。第二次世界大戦が勃発して、二代目は神奈川県伊勢原市へ疎開し、芸の世界とは疎遠になってしまいます。昭和37年7月19日に横浜市磯子の自宅で亡くなりました。三代目の梅太郎は二代目の遺言を守ってサラリーマンになってしまいました。

豊年斎四代目 櫻川ぴん助(初代ぴん助)

幇間芸
豊年斎四代目梅坊主こと
櫻川ぴん助(初代)・美代鶴

父・櫻川ぴん助(初代ぴん助)は初代豊年斎梅坊主に大正11年の弟子入り。 戦後になって豊年斎四代目梅坊主を継ぎました。

豊年斎四代目 櫻川ぴん助(初代ぴん助)

豊年斎四代目 櫻川ぴん助 豊年斎四代目 櫻川ぴん助

芸能界の振興に貢献した方々の功績をたたえ、大衆芸ゆかりの地“浅草”のシンボルとして末永く後世に伝えるために設置している台東区の浅草公会堂の「スターの手型」に櫻川ぴん助(初代ぴん助)の手型があります。

豊年斎四代目 初代櫻川ぴん助
昭和60年に台東区長から「スターの広場顕彰」を頂きました。

豊年斎四代目 初代櫻川ぴん助
浅草公会堂の入口に「スターの手型」はあります。

豊年斎四代目 初代櫻川ぴん助
櫻川ぴん助(初代ぴん助)の手型です。 豊年斎四代目 初代櫻川ぴん助
浅草にお立ち寄りの際は、ぜひご覧ください。

浅草公会堂では「かっぽれ」のお稽古もやっています。
詳しくはこちら→「かっぽれを習いたい」

豊年斎五代目 櫻川ぴん助(二代目ぴん助)

平成(1988~現在)

大芸道・奉納・国際親善
櫻川梅寿(初代ぴん助・美代鶴 実子)改め
豊年斎五代目家元 櫻川ぴん助(二代目ぴん助)

昭和56年、名取「櫻川梅寿」に。 昭和60年家元を襲名し、
豊年斎五代目、櫻川ぴん助(二代目ぴん助)を名乗る。

五代目豊年斎 家元 櫻川ぴん助
左端が父、初代ぴん助。右から二番目が私、二代目ぴん助

豊年斎五代目家元 櫻川ぴん助(二代目ぴん助) 豊年斎五代目家元 櫻川ぴん助(二代目ぴん助)
平成3年5月 四月歌舞伎公演・初日に招かれた櫻川ぴん助(国立劇場にて)

豊年斎五代目家元 櫻川ぴん助(二代目ぴん助)
十二代目市川團十郎さんと櫻川ぴん助

豊年斎五代目家元 櫻川ぴん助(二代目ぴん助)
九代目坂東三津五郎さんと櫻川ぴん助

豊年斎五代目家元 櫻川ぴん助(二代目ぴん助)

豊年斎五代目家元 櫻川ぴん助(二代目ぴん助)

かっぽれ年表
文化・文政年間(1804~1830)
大道芸
願人坊主
歌舞伎舞踊
「栄華の夢・全盛遊」
明治・大正(1868~1925)
大道芸
平坊主(兄)
初代豊年斎梅坊主(弟)
豊年斎二代目梅坊主
歌舞伎舞踊
「娯浮世機関」
「初霞空住吉」
九代目市川團十郎
初代市川左團次
昭和(1925~1988)
大道芸
豊年斎一輪こと
豊年斎二代目梅坊主
豊年斎梅太郎こと
豊年斎三代目梅坊主(二代目実子)
幇間芸
豊年斎四代目梅坊主こと
櫻川ぴん助(初代)・美代鶴
櫻川梅寿(初代ぴん助・美代鶴 実子)
四代目豊年斎 初代櫻川ぴん助
豊年斎四代目 初代櫻川ぴん助
平成(1988~)
大道芸
豊年斎五代目家元
櫻川ぴん助(二代目)
豊年斎五代目 櫻川ぴん助(二代目ぴん助)
奉納
伊勢神宮、住吉大社、浅草神社、
靖国神社、生田神社ほか
国際親善
アメリカ、イタリア、スペイン、
チェコ、トルコ、ブラジル
五代目豊年斎 初代櫻川ぴん助
1994年5月28~29日
イスタンブールジャパンフェスティバル
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